医師数・医療増加政策への賛成者と反対者が対立することの意味

 本田 宏先生のブログ http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/honda/ に既に書いた内容を加筆・修正して掲載することにしまた。今回の言説は基本的にメタ議論とでもいうべき抽象論であり、医師数を増加すべきか否かの価値判断にはあまり触れておりません。
 本題に入る前に明確に述べねばならないことを列挙いたします。

  • 理性が情念よりも高級であるとは、全く考えません
  • 『理詰めの夢は怪物をもたらす』という高名な哲学者の言明を真とみなしております
  • 「議論」も「意見発表会」(後述)もどちらも価値があると考えます

「目標が手段を決定する」という常識を確認しましょう

 医師の中には、医師の数の増員に反対する方がおります。理由は、希少価値が低下する、給料が下がる、質の低い医師が増えるなど。そのような方々の主張は論理的には完璧で、全く破綻しておりません。同様に、本田 宏先生らが医師増員と医療費増大を求める理論構成も完璧だと断言します。

a) 『まったく正反対の政策を主張しているのに、どちらの論拠も完璧ということはありえない』

b) 『どっちの政策が正しいかを諸証拠と論理で決定できるはずだ』

 a), b) を真とみなしていない方は半数に満たないのではないでしょうか。自分は、大学時代の、20才頃まではどちらも真と「論理的思考」により確信してました。
 どちらも偽だと情念で「わかる」ようになり、さらに「論理的に」はどちらも偽だと100%断言するようになったのは、25才頃だったと思います。
 ほんと、抽象的な語りで恐縮ですが、大変重要なことなのでなんとかして皆様に伝えていきたいと思います。もちろん、a) も b) も偽だとみなしている方々は以下の文章を読む必要がありません。

a) も b) も偽である根拠

 自分は理科系人間ではなく、文化系人間でもなく、どちらも好き。父親が極めて特異な生き方をしていたおかけで、ありのままの自然が好きで、人間ってのがまた好きでした。自然が好きなので数学や物理が面白く、人間が面白いので古典も文学も好き。
そのような私ですので、今でも読む書物も思索も自然科学と人文科学の両方でどちらが多いとも言えません。哲学と数学の双方から a) and b) が偽ということを説明できそうなので暇な方はお付き合い下さい。

【1】 『理性は情念の奴隷である』--人文科学からの根拠
 申すまでもなく、デイヴィッド・ヒューム(18世紀のイギリス経験主義哲学の大御所)の至言です。「理性は情念の奴隷」というキーワードで google で検索すると90件以上ヒットします。その中から1つ選択しました。
  http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~tit03611/2002a.html より引用します
/* 引用開始 */
この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた。このような解釈の前提になっているのは、ヒュームの哲学体系において、知識論が、情念論や道徳論に先立って完結した単位をなし、その地盤の上に情念論や道徳論が展開されるという把握であると思われるが、私は最近、これと反対の考え方に到達した。つまり、上記の言明は、理性の活動は情念の定めた範囲の内でしか行なわれ得ないことを述べている。言い換えれば、情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである。
/* 引用終了 */
 この引用で十分だと思われますが、私の言葉でこのブログにおける対立点に即して述べますと、『一人の人間は情念によって「好み」を選択するのであり、理性によって選択するのではない』ということです。『情念が選択するのであり、理性が選択するのではない』と表現を変えても良いです。選択の結果が、医師数増員反対であれ、増員賛成であれ、その「理由」というものは「論理」ではなく、情念だということです。
 医師数増加反対論の「論拠」は、医師の「希少価値」がなくなる、給料が下がるなどいろいろとありますが、よくよく考えると基礎にあるのは情念です。医師が増えるとありがたみが薄れるのが嫌だ、給料が下がると生活水準が下がるのがいやだ...、情念です。
 医師数増加論の「論拠」は過酷な労働環境とか、医療ミスを低下させることなどいろいろありますが、やはりよくよく考えると基礎にあるのは情念であると私は断言します。過酷な労働環境(待ち時間が長い文句をいわれる、結果が悪いと罵倒されたり訴訟になる)、医療ミスは起こしたくないが過労のためいつ起こすか心配.....などなどの情念。
 医師数を増加させるという「政策」の賛成、反対「論」とも基礎は情念なのであり、優劣の判定は原理的に不可能で、ましてやどちらが人間として「正しい」ということは言えるはずはありません。ところが、どちらの「論」者も、相手を理性により、具体的には「諸証拠」と「論理」により、打ちまかそうとするため、

【2】 ゲーデル不完全性定理 -- 自然科学からの根拠
 第1不完全性定理自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。』
第2不完全性定理自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。』
 ヒルベルトは数学の無矛盾性の証明を目標としていたのですが、ゲーデルは「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを証明しました。
 医師の皆様には釈迦に説法ですが、ユークリッド幾何学の公理からたくさんの定理が演繹されますが、公理そのものの「証明」は決してできないことも、非ユークリッド幾何学というユークリッド幾何学の公理とは異なる公理から発する幾何学があり、それはそれど現実世界の記述に有用。
 少し考えるとこの原理は数学以外に一般的に拡張できることがわかると思います。医師数増加という政策に関しての賛成ないし反対は、どちらかが「公理」となるのではありません。「公理」となりえるのは、次の c) or d) の命題。

 c) 『医師が過酷な労働環境で働くことは、医師にとっては良くない、患者にとっても良くない』
 d) 『医師の希少価値を維持すべきである』

 どちらを公理とするかで、政策が決定されるのであり、どちらが正しいかの判定は原理的に不可能。どちらを選択するかは情念によるほかないのです。どちらかを「公理」とみなすと、公理から演繹される政策は論理的、機械的な操作により簡単に決ります。「公理」というよりは、単純に「好み」ですね。ところが「好み」にもかかわらず、「公理」とみなしてしまう方が大多数なのだと思います。

議論と意見発表会の区別

 私は1980年代にNIFTY SERVE の FSHISOで政治哲学・哲学のフォーラムに参加しておりました。その頃の事を思い出しました。議論と「意見発表会」の区別をする必要があるということです。
 いわゆる「議論」には原理的に決着のつく議論と決着のつかない議論との二種類あります。前者を議論、後者を意見発表会と定義するのが良いと提唱します。
 目的が異なる論者の間では議論は成立しません。目的が一致する論者の間でのみ議論が成立し、そうでない論者の間での「議論」は「意見発表会」なのです。
 上記、c) を公理とみなす者と、d)を真とみなす者との話し合いは、意見発表会にならざるを得ないということ。ゲーデルやヒュームを持ち出すまでもなく、少し考えたらわかることなのですよ、実は。
 手段に関しては議論が成立すると言ってもいいでしょう。目標・目的に関しては、議論にはなり得ず、意見発表会にならざるをえないのです。
 議論が成立する条件はもう1つあります。仮説の真偽判定ということです。自然科学の諸論文の本質は、仮説の真偽判定と仮説に関する議論であり、諸論文による諸証拠に関して、専門雑誌や学会の場で議論が成立しています。
 繰り返しますが、c) or d) のどちらが正しいかということに関しては、議論が成立すことは絶対にないのです。どちらが正しいかということを判定するのは、もう1つ上のレベルの「公理」または「仮説」を設定しなければならないのです。次の章で解説します。
 例えば、私と医師数増加反対論者の間でかわされる言葉のやり取りは議論ではなく意見発表会なのです。これに対して、本田 宏先生と先生の政策に賛同する方々との間では、目標が一致しておりますから、方法についての議論が成立しており、とても実りが多いのです。

医師数・医療費増加という政策の是非決定に関する「仮説」ないし「公理」

 「上の」レベルの「公理」として考えられるのは。

e) 『人口構成で補正した市民一人当たりの医療費を増額させてはならない』
 この公理を採用すると、診療報酬はそのまま据え置きすべきで、老年人口の割合が増加することによる総医療費増大はそのまま容認することになります。医療行為の量が老年人口の増加により増えるため、医師の数を増やすことが必要となります。女性医師の割合とその増加を考慮して、更に医師数を増加させることが必要となります。

f) 『高齢者の全人口に占める割合を無視しての単純な市民一人当たりの医療費を増額させてはならない』
 この公理を採用すると、老人が増加しても総医療費は凍結ということなので、老人の医療費を低額にして低下させる必要があります。医師の数に関しては、凍結または削減ということになります。

g) OECD諸国の平均くらいに、医療費および医師数を増加させる
 これは本田先生の主張。このブログの医師の多くが賛同している「公理」。

 さらに「上の」レベルの「公理」として考えられるのは。

h) 日本国民は医療水準の維持のためとはいえ、市民一人当たりの租税等(社会保険料+税金)負担率の増額を容認しない

i) 日本国民は医療水準の維持のためには、市民一人当たりの租税等負担率の増額を容認するであろう

 厚労省の「公理」は e) と f) の中間ですが、e) に近いと思われます。厚労省が総医療費の削減を目的としている証拠を私は知りません。すべての証拠は、厚労省が医療費増加の加速度を減じることを目的としてことを示していると思います。
 よく考えると、h) and i) は公理としてとらえられるべきではなく、仮説なのです。h) or i) の仮説のどちらが真かを、情念でも論理でも判定することは絶対にできません。本田先生のごとく考える方々の運動が大いなる効果を発揮したならば、i) が真となり、効果が不十分ならば h) が真となる。そういうことなのではないでしょうか。
 市民の大多数がOECD諸国並みに医師数と医療費を増加するを容認することが世論となれば、国会議員(政党)は選挙で当選するために、そのことを政策として訴える傾向が強まります。このことは必要条件ではありますが、十分条件とはならないと思います。財政赤字と長期債務の問題があります。租税等負担率が増額された分だけ、医療費が増額されても、借金の量はまったく減らないどころか、膨らむばかりだからです。

 もう1つ「上の」レベルの「公理」ないし「仮説」を検討する必要があります。もちろん、医療費増加に相応する程度の租税等負担率の増額を市民の大多数が容認するとの前提で。

 j) 非医療費を十分に減額することは不可能なので、日本国が破産しないためには医療費増額の抑制は必須である

 k) 医療費の増額以上に、非医療費を十分に減額することは可能なので、日本国は破産をまぬがれることができる

 日本国の中央官庁のすべては j) を自明のこととしているのではないでしょうか。歳出削減において、政治家の力があまりにも弱いのが日本です。政治家に対して市民が「自分のところだけは削るな」と求めます。たまたま子供がいる有権者は小児医療だけは充実させろと要求し、たまたま現在高齢の方は老人医療は少なくともこれまで通りにしろ、癌の患者と家族は癌についての医療費は増額せよ、..........。
 j) と k) は医療を再生させようとする人々の努力により、どちらが真かの結果が変ってきますが、i) と k) の命題は「仮説」ではなく、「公理」となり得るものでもなく、市民全体(国家)の意志についての二者択一だと思います。道路などの公共事業における無駄(ただし、これはこれで雇用の維持に役立っている)を思いっきり削減することはやる気になればできることですが、市民の総意としてやる気になるかどうかです。
 諸政党の多くが党派を超えてk) の意志を持ち、市民によほど強く訴えることが必須だと思われます。医療者、患者・家族、報道機関は政治家と市民に強くうったえることも必須。医療にはあまり関心がない大多数の市民は総論賛成、各論反対となりますから、道のりは大変困難だと思います。しかし、実現できると私は信じます。
 医療にはあまり関心がない市民と言えども、新聞やテレビ等の報道により
(i)+勤務医の悲惨な状況
(ii)小児・産科医療の崩壊
(iii)日本の医療費も医師数も先進国で最低レベルであること
を知るようになってきました。(i)と(ii)は意思決定に最も関与する情念に直接響きます、(iii)は理屈ですが情念を補強します。

 (i)〜(iii)のことをまったく問題としてない方がおりますが、彼(彼女)らがそのような価値判断をしていることを批判することは原理的にできません。彼(彼女)らは医師の給料が下がらないなら医師数増加には反対しないように見てとれます。彼(彼女)らのように、本田先生ら(私も)の提唱する政策に反対する言説を半公開のブログで堂々と主張することはとてもよいことだと思います。
 (i)〜(iii)のことを知る市民は、彼(彼女)が云う『医師の給料が下がるから医師数増加に反対する』とか『医師の数が増えたら、低能な医師が増える』という主張には賛成しないと思います。