公的医療は相互扶助の制度

/** 本田 宏先生のブログへのコメントを少し修正して転載 **/

澤田石 順と申します。某大学医学部6年さんの書き込み、感動しました。

■某大学医学部6年さんへ
▽自分のこと
私は平成元年に卒業し、最初の四年余りは脳神経外科。地方(私は秋田県)の脳外科医師は
ポケベルなしの自由日が年に数日しかないことを知った上で、「日本国も先進国並みに
医者が増えて、十年後には脳外科医師といえども月に二日程度の休みがとれることは
間違いない。そうなったら、月に二日間の休みには好きな山登りをしよう」と考えた
のでした。学生の甘さというか、日本国の医療政策を知らなかったのでした。
 卒後三年目頃、明確に判明したのは日本国の脳神経外科医師は、国家の政策が今の
ままである限りは、何十年たっても年に数日しか自由日がないこと、そもそも日本国で
医師を続ける限りは、当直という夜間勤務の前後での通常勤務はずっと続き、夜間勤務
がない平日であってもいつでも呼ばれたら病院にいかないといけないこと。
 私がもしも脳外科の仕事以外に楽しみがまったくない人間でしたら一生をささげて
いたと思いますが、自分には医療以外の他の目標と楽しみがあり、脳外科を秋田県
やっていたらこのまま終わってしまうのが恐ろしくなりました。
 たまたまそのころ(1992年1月)、高校山岳部のOB会があり1995年にヒマラヤの8000
メートル峰に登頂する企画があり、お前はどうだといわれました。
 3分ほど熟慮し、脳外科をやめて登頂することを決意したのでした。予定とおりに
1993年9月に医局を脱退しサラリーマンとなり、1995年に登頂を果たし、同年の末から
救急医療の仕事を再開しました。再開後一年余りは徳洲会病院で三日に一回当直で
新卒扱いの研修医をやり、その後いろいろとあり、2002年1月いっぱいで救急医療
は終了。

▼アドバイス
 私事が長くなりましたが、私のアドバイスは「医療政策を学生時代にじっくりと
検討するべき。」ということではありません。
 しっかりと医療政策とその方向性については勉強してください。もしも私が学生時代に
1983年の医療費亡国論とその議論が実効性をすでに有していたことをちゃんと理解できてい
たらば、自分は浅知恵でこう結論した危険があります。
 「脳外科など論外。奴隷状態が一生続く。これからは眼科などの報われる
  診療科を選択するべき。臨床医ではなく保健所勤務など給料は安くても
  まともな生活ができる仕事をするのがよい」
もしも浅知恵があれば、自分は最悪の場合に今頃は厚生労働省に勤務していて、
医師および患者を迫害する立場になっていたかも知れません。私はいろいろな
ところで、厚生労働省の原課長という方を批判してます。彼は非常に評判が悪い厚生労働省
官僚ですが、彼は自治医科大学卒業の医師なのです。彼は現場医療の経験がほとんどないため、
一人当たりへの公的医療費削減原理主義をそのまま正義とみなして、あのような政策を推進し、
報道関係者の前で堂々と語っています。厚生労働省の原課長個人は決して悪人ではなく、
真面目で真剣に「一人当たりの医療費削減という枠内で」頑張っているのです。彼の人柄や仕事
への姿勢については、前中医協会長の土田先生から直接聞きましたので間違いないこと。
 自分に浅知恵がなかったからこそ、過労死しかねないどころか、年々過労死の確率が高まり
そうな診療科目を選択したのであり、そのことは財産になったということを強調したいので
す。本田先生はもちろん、私の友人の大多数は卒後20年のこの時点で今でも救急医療で
頑張ってます。私は「立ち去りました」。しかしそれでも2002年の1月までは救急医療にたずさわり
月に平均4日は36時間以上連続勤務しておりましたから、立ち去ったことについて良心の痛みは
ずっとありますが、発言する資格はあると感じております。立ち去ったからこそ、救急医療にたず
さわる医師らとは比較にならないほどの自由時間ができまた。でありますから、救急医療で
頑張っている医師らの少なくとも10倍程度は発言しなければならないと決意してます。
 この決意が固まるきっかけは、本田先生の「勤務医よ、戦え」ブログなのであります。
小松 秀樹先生の「医療崩壊」を読んだことも、自分が覚醒する契機となりました。
 本田先生のブログを読み始めたのは2006年11月、医療制度研究会への加入は2007年4月。最初の
医療制度研究会講演の二次会で本田先生と直接語ることができて、自分の生き方は決定的に
変わってしまったのでした。

 某大学医学部6年さん、どの診療科を選択するかは好み、あるいはなりゆきに任せる
のがよいです。医療政策の動向とか、当面の厳しさなどの「浅知恵」で選択するのでは
なく「気合」で、あるいは「公的精神」(もっとも医師不足のところを選ぶ)で!!

 自分がやりたい診療科目を選択せよ。まよったらば、もっとも厳しく、なおかつ
もっとも報われないところを選択してほしい」ということなのであります。

    過労死と訴訟の危険が高いの診療科目を!!

なぜならば、
    過労死と訴訟の危険が高い診療科目こそ、もっともやりがいがある
からです。

さらに、
    現時点で過労死と訴訟の危険が高い診療科目こそ、あと10年も経過したらば
    もっとも手厚く保護されるであろうから
です。

▼医学部の学生さんへ
本田先生が愛読されている、塩野七生さんの「ローマ人の物語」は自分もすすめます。
公的精神、公的幸福、公的自由という日本社会にはなじみのない概念、生き方を学ぶこと
ができますから。私的幸福および私的自由すら、この前の戦争以前には抑圧されてましたが
戦後に成立した憲法により私的幸福・自由はきちんと保護されるようになり、日本国の市民は
私的幸福・自由の追求は当然のこととみなし、私的幸福・自由を実際に追求するようになり
ました。そのことはよいのですが、公的幸福・自由という欧米先進国における理想はまったく
浸透することがなかったのです。これは仕方ないことです。理由を述べていきます。
 もともと日本国の社会には「困ったときはお互い様」という相互扶助の精神が村々に生きて
おりました。相互扶助の精神は、日本社会においては「異質なものの排除」につながることが
問題として指摘できます。つまり「村八分」です。 戦後の憲法により私的自由・幸福の追求
が現実に可能となりましたが、戦後の日本社会は古き日本にあった良い部分、つまり相互扶助の
精神・慣行を否定してしまったのです。個人の自由ばかりになってしまった。
 個人の自由というものは欧米先進国においては、国家権力による不当な侵害から個人の生活を
防衛するためのものとして発展しました。欧米先進国、つまり古代ローマを継承した国々においては、
「個人の自由」という概念が発達するより前に、知的ないし経済的エリートの責務は私的利益を離れ
た公的な活動であることが当然でした。たまたま国家という制度が、特に国民国家が発達したために、
中央政府の権力が強くなり私人に対する統制が強まり、「政府からの自由」、「法の支配」の概念と
法基盤が発展したのです。そのような発展過程において、エリートの責務という概念はずっといき
続けてました。
 日本国の幸運はこの前の戦争で負けたあとに、個人的自由をきちんと守る憲法が成立したことなの
です。が、もともと日本に存続していた相互扶助の精神・慣行が、戦前の文化はすべて悪という
短絡的な見方により葬りさられてしまったのは不運でした。「不運」というよりは、必然的な経過
だったといえます。

 学生さんには、塩野七生さんの「ローマ人の物語」をもちろん必読書としてすすめますが、
もう一人、ハナー・アレントという政治哲学者の著作に親しまれることもすすめます。あなたが
公的保険医療にたずさわるとしたら、公的自由および公的幸福の追求に関して哲学的な基礎を
構築する必要がありますから。 日本の著作では、「葉隠」などの武士道ものをすすめます。

 書物などよりもっと大切なことは、学生時代に現場にふれることです。救急医療の現場より
も、在宅医療、老人保健施設療養病棟特別養護老人ホームなどの現場で奉仕活動をしたり
あるいは短期見学をすること。救急医療からのその先にこそ、もっと深刻な現実があります。
救急医療の最前線は目立ちはしますが、氷山の水面上の世界の小さなことなのです。どのみち
卒後は救急医療の現場にただちにいくわけですから、学生時代にこそ、そこから先の現場を
見ることが求められると私は考えます。(私は学生時代に登山ばかりしていたのではなくて
社会衛生部というサークルの活動で毎週のように特別養護老人ホームを訪問してました)。

 医学部の学生さんには、介護の現場、介護に従事する人々の恐るべき低賃金などぜひとも
生でしっていただきたいと思います。あるいは、国保の保険料が払えないために医療機関
受診をしなくなっている不幸な方々を支援する活動への参加など。

 医学部の学生時代において重要だと私が思うことを順番に列挙します。

 第一、体力強化: 卒後は体力なくしては生きてはいけません。
 第二、救急医療とはことなる介護・在宅医療の現場を見ること
 第三、公的自由・公的幸福・公的精神ということについて勉強すること
 第四、純粋な医学的知識の向上

■x様へのコメント
>現在の医療の荒廃は、経済界の政治支配で生じていると思います
表面的な現象はそうなのですが、根っこにあるのは、日本国の市民の圧倒的多数が
私的自由にめざめてしまい、その結果として、市民のほとんどが経済という私的な利益以外に
人生の目標がなくなったことにあるのではないでしょうか。もちろん敗戦後の荒廃から
立ち直るためには経済第一であって当然でした。幸運にも経済第一主義で成功したため
食料は十分にほぼ全市民にいきわたるようになりました。食糧事情が改善したために
寿命が飛躍的に延びました。寿命の延長において医療という技術が果たした役割は
小さなものだと思います。経済が成長したからこそ、食糧事情が改善し、衛生習慣が
普及。栄養の改善と衛生の改善が平均寿命の延長の主因であり、抗生剤等の医療技術の
発展の寄与は小さいともう一度いいます。


▼一般市民の方々を含めて訴えます

 日本国の市民は、医療には完璧を求め、病院で死んだら常に医療事故を疑う人が
どんどん増加するにいたりました。医療に完璧を求めつつも、「これ以上は
税金も保険も値上げしたくない」。このような典型的日本国の市民には、公的な精神が
欠如しています。問題はここにあるのだと私は思います。少なくとも公的医療は相互
扶助の精神に基礎をおいているはずでしたし、そもそもの国民皆保険制度は
「助け合い」の制度だったと思います。いまや、みんなで困った時には助け合いましょう
という医療制度は変質して、「病気になったら医師は必ずなおしてくれ、医師の説明は納得
いくまでしてくれ、希望とおりの結果にならなかったら納得いくまで説明してくれ、
納得いかないときは裁判に訴える、医師が不注意で失敗したら刑事罰をあたえて当然」と
なってしまいました。
 患者は、もともとおらが村のセンセとして大事にしてきました。センセは○○んところの
次男坊の××という名前で識別される存在でした。
 センセはセンセで患者は名前がある村のじさま、タバコ屋の子供など、抽象的な存在では
なくて、つながりある人々でした。
 戦後、医者は患者を抽象化し、患者は医師を抽象化。つまり、お互いに道具としてみるように
なってしまったのです。道具同士で「おたがいさま、たすけあう」ことなどあるはずがありません。
全人的医療という外国の言葉はありますが、私にいわせるとその言葉は抽象的な「概念」に
すぎません。リハビリ医療においては「全人的な復権」という外国からきた「概念」があり
ますが、同じく学者の空論だと思います。今、目の前にいる患者さんは、「○○県生まれで
これこれの人生をおくってきて、バナナが大好きで、コレコレの生活をしてきた、×▼
という名前の人」。その患者さんの奥さんやおこさんもまたひとり一人名前があり、
人生歴がある、ただ一人のひと。

 日本国の市民らの大多数が根無し草になってしまった。社会学者はそのような人々を
大衆人と表現します。社会学者の言葉などどうでもよいのです。私の人生における目標の一つは
はコンビニ、学習塾、携帯電話を原則として法律で禁止することなのですが、それでも
自分はコンビニで買い物をした時は、店員の目をみてありがとう、とか、ご苦労様、とか
一言声をかけます。コンビニの店員は道具ではありません。患者にとって医者は道具に
すぎなくなってしまいました。医者にとっての患者もそうなってしまいました。

 医者にとっての患者、患者にとっての医者も道具になった以上は、医者が過労などに
より「治療を失敗した」あるいは「避けられない合併症がおこった」時に、患者が
医者を加害者として足蹴りにしたい気持ちになるのは当然のことであります。
 ただせめてわかってほしいのは、医師が刑事裁判で被告にされることは、医師が
患者さんの家族から殴られたり足蹴りにされるという肉体的な暴力よりももっとひどい
迫害だということ。厚生労働省が最近公開した第三次試案では医療事故の定義が
とうとう「医療のミスがないものも、あるものも含む」となりました。医療事故という
言葉は、明白な医療ミスの時に用いられるものであり、調査の結果ではじめて
「医療事故」か否かがわかるものでした。医師を迫害するための制度が最悪の
場合に今年中に国会で成立します。医師と患者はお互いを道具とみなすのではなく、
お互いが生身の人間として、助け合う存在のはずではないでしょうか。そもそも、
同じ市民、ムラ人です。

            澤田石 順 (平成元年卒業)
http://homepage1.nifty.com/jsawa/medical/