もう一つの日本を実現しよう

(知り合いの方々へのメールそのまま[長文です])
いつもお世話になっております。澤田石です。金融恐慌につづく
実体実態経済の悪化は、日本崩壊から再生への千載一隅のチャンスだと
私は確信しております。人々の苦しみと痛みは増大するばかりです
が、再生する糸口が明確になりました。私はそう思います。
粗削りですが、基本的な政策について述べさせていただきます。

トルストイの金言 
 岩波文庫の『トルストイの生涯』ロマン・ロラン著) p205より
> 「人々を結合するものはすべて善であり美である
>  人々を離反させるものはすべて悪であり醜である」
>  この公式だれでも知ってます。これはわれわれの心の中に
>  書き付けられているものです

■私が自明とみなすこと
・神は人々が協業する限り、皆が豊かになれるようにこの宇宙を
創造したのである。(自分はクリスチャンではありません)
・科学と技術の発展は能力に応じて仕事をして、必要に応じて
サービスを受け取る社会の実現を可能にする。
・自由は法の支配と同義である
・法の支配(人の支配ではない)の下でのみ、政治の自由(民主主義)、
経済活動の自由、言論(出版)の自由等が可能であり、法の支配なくして
は科学と技術の発展(=生産効率の増大)は困難となる
・国家の目的は教育と社会保障の充実であり、その手段は法の支配と
 自由と民主主義の政治体制である
・国家は私人の目的に介入してはならない
・官僚体制は必要悪である
・官僚ないし知識人が社会を設計できるという考えは幻想である
・公的自由ないし公的幸福の実現が人間にとって最高の喜び

■政府・与党の景気対策は駄目
▼総じて、今困っている人々に関係ない
 ・住宅ローン減税(既にマンション等は供給過剰)
 ・証券取引の利益に対しての減税措置の延長
 ・輸出企業が海外子会社の利益を国内に送る際の減税
 ・総じて、すべての減税政策は赤字の企業にも低所得者にも
  無関係
 ・定額給付金(論外!!)
 ・減税するにあたり「財源は」という話しがまつたくないが、
  社会保障費の2200億円削減についてのみは、財源がみつから
  ないとなっている

■なすべきことは、『困った時はお互い様』の原則で非常事態に対応すること
 金融恐慌、景気後退という現実があるので、本当は必要な
企業の社会保険料負担の増額、租税特別措置の撤廃(基本的に大企業
にとってのみ有利)、法人税の強化、などは現実的選択肢になら
ない。したがって以下のごとき政策がいろいろな理由で有効と
思える

■重要な事実
1)消費税(付加価値税)が1989年に導入されてから2007年度までに消費税の
総額は188兆円、その間における法人税減税(利率低減と租税特別措置の
増殖。このような主に輸出する大企業[トヨタCanonなど]のみが利益)の
総額は160兆円。
 すなわち、消費税は社会保障というセーフティーネットの手当というよりは
企業減税のために使われてきた。
 全税収にしめる消費税は日本が24.6%、イギリス23.7%、イタリア27.5%と
日本の消費税は税率は5%であるにもかかわらず大きい(生活必需品が
ゼロ税率ないし低率でないため)

2)トヨタの奥田氏、Canonの御手洗氏らが、派遣労働者制度を創設し
非正社員が3割の日本にしてしまった。若者の車離れは、非正社員
増加による。私は1962年生まれであるが、例えば友人で工業高校
卒業の人達は卒業後、正社員になれたために、車好きの人は
150万円のスカイラインを購入していた。今は、高卒者や大卒で
「能力が低い」、「資格がない」人は正社員になりにくいため
借金して車を購入するなどできない。
 奥田氏は自らの首をしめる政策を主導してきたのである。

3)この20年余りの間、高額所得者の課税[税と社会保険料]は軽減されてきた

4)医療、介護、年金、生活保護等という社会保障の充実は国家としての
目標であるべきであるが、社会保障は目的でなく必要悪とする見方をする
政治が続いてきた。言い換えると『困った時はお互い様』、『お金が
ある人が貧乏人を助ける』という日本社会の伝統を否定する政策が
継続してきた。『こまった人は自己責任で』という社会が持続可能
であるはずないことに政治指導者はきづかなかった。

5)企業・団体献金が禁止されてなかったために、大企業の献金
自民党に集中し、悪徳商売人(無知な人々)の影響が不当に増大
した。

6)報道機関のほとんどが民間であるために、トヨタなどの大企業の
コマーシャルに依存する報道機関が「自己規制」してきた。

7)1〜6の結果として、GDPにしめる社会保障支出は先進国で
最低水準。さらに、医療費の自己負担が世界一の水準。

8)1〜6の結果として、将来に不安をかかえる市民が増大し、消費よりも
 不安にそなえての貯蓄や個人保険(医療や年金)への支出が増大。
米国系などの民間保険会社の医療・年金保険が儲かっている。

9)1〜6の結果、個人消費支出は低迷したまま。大企業の設備投資は増え
経常利益率も大企業は好転したために見掛けの経済成長率は少し
好転したが、大多数の人々の生活レベルは低下し、将来の不安は増大

10)1〜4の結果として、税金も年金保険税も医療保険税も払えない人々が
 増加し、さらに生活保護世帯も増加
 →個人所得税が減った。年金、医療保険介護保険の未払い増加
 →→中央・地方政府が困窮した世帯・個人に支出する金額増加

11)女性が結婚しようが、結婚しなかろうが、子供を産んで安心して
育てることができるための政策がほとんど皆無であった。理由は
財政危機。


■政策提言
▼個人所得の累進強化
 これは言うまでもない。直ちにしなければならない。
高額所得者からの2兆円程度の増税は必須であろう。

不労所得への課税強化: "資産"性所得に関連する課税強化

1)個人金融試算が1500兆円、その半分が預貯金
 利子課税を50%に。そもそも普通預金にしろ定期預金にしろ
利率が異常に低いので、金利に依存して生活している個人は
ほとんどいないであろう。預貯金への課税強化により生活が
困る個人はほとんどいないと思われる。少なくとも、派遣労働者
や失業者は全く困らない。750兆円の預貯金の金利を平均で0.2%
という数値(実際には定期預金は1%以上なのでもう少し高いと
思われる)で計算すると預貯金の利子は総額で1.5兆円。現在の
利子はたったの20%(利息の15%は国税、5%は地方税)。
50%にすることで、7500億円以上の増税が可能。これだけでも
社会保障費用の自然増からの2200億円削減など中止できる。

2)公債の利子についての課税も50%
 中央および地方政府は利払いで精一杯である。中央政府について
云えば国債費は30兆円を越えている。
 中央・地方政府の公債の公債は平成20年度末には約780兆円(GDP費148%)。
 日本国の公債は外国人(政府、企業)にさほど買われてない。
 国債の利払費は、二〇〇七年度は八・六兆円、二〇〇八年度は九・三兆円
財務省「債務管理リポート2008」内の一般会計利払費)。
公債の利子課税50%により、中央政府の利払いは4兆円程度減じ、
その分を社会保障や雇用対策に回せる。
 細かい数値はともかく、中央・地方政府の公債の利払いに関して
50%の課税をすることは100年に一度の非常事態ならば政治的に十分に
受け入れられることであろう。50%という高い税率が長期金利の上昇を
もたらすという経済学的な予測もあろう。ならば30%にするなどの
取り繕いが必要だろう。

3)証券等の売却益(キャピタルゲイン)課税の強化
 トリックを用いた金融バブル政策が「持続不可能」であることが
再び明確になった。そもそも1929年の大恐慌は金融機関のハイリスク
ハイリターン商品の野放し政策(米国)によるものであった。あの
大恐慌の教訓を正しく理解したローズヴェルト政権は銀行は
州を越えて営業してはならない、銀行、保険会社、証券会社は
分離せねばならないと規制を強化したのであった。そのような
規制強化がレーガン政権以前まではまもられていたために、
世界は大恐慌をまぬがれていた。銀行、保険会社、証券会社の
融合を許し、ハイリスクハイリターンの金融商品の発売を
許した米国の政策が今日の危機をもたらしたことは既に
証明された事実である。
 従って、日本政府がやろうとしている証券等取り引き利益の
減税の持続は間違った政策である。逆にキャピタルゲイン課税は強
化するべきである。

▼雇用の確保
1)医療と介護への失業者吸収政策
 どこの病院も人手不足にもかかわらず、診療報酬削減のために
苦境におちいっている。国家資格を持つ看護師や看護福祉士がレントゲン
検査の時に送り迎えしているのが現状。医師は事務員でもできる書類
作成をしている。しかい医療機関は経営危機にあるために、事務職や
単純労働者を雇用できない。
 今年度の医療・介護の診療報酬の内容を直ちに変更することは
現実的に極めて困難である。
 したがって、保険点数一点10円のところを、一点11円または12円と
するのである。医療は30兆円そこそこ、一点点数が11円になれば
三兆円以上、二点なら六兆円以上は保険医療機関の増収となる。
 保険医療機関(医療と介護の公的施設等)の収入を10%プラスと
することで、公的病院ですら多くは黒字となる。
 すべての保険医療機関に対して、失業者ないし低所得者の雇用を
現在の人員からして5%以上増やしたらば、保険点数一点について
11円ないし12点という条件をつけること。数値については専門家による
計算が必要であろう、もちろん。
 失業した派遣労働者が保険医療機関で働く場合、専門技能がないために
単純労務に就いて、低賃金になるには致し方ない。同時に、希望する者に
対しては介護ないし看護等の専門学校に行く事を国家として補助することも
必須である。

5)農林水産業の復興
 中国が高い経済成長をしているおかけで、一次産品の価格が高騰して
いることは天佑である。農林水産業を「基本的に」鎖国すること
条件がととのっている。一度に鎖国するのではなく、段階をふんだらよい。
 食料自給率を20年以内に9割とする大目標を設定し、高齢化した方々が
多い農林水産業への失業者の就労を援助する国家政策が必須であろう。
例えば、トヨタなどから解雇された労働者が医療・介護現場で働くので
はなく農林水産業に従事したい場合、農家、漁業者、林業者等の
業者に対して、一人あたり年間360万円の補助をする。補助は無期限では
なく、毎年30万円減額でもよい。
 この政策により農林水産業の生産が増大するのであるが、農協、
農水省、そして学者の叡智を絞って、増大した生産物をどのようにして
無駄にすることなく買い取るかの仕組みをつくるのである。

▼地元経済主義への転換
 全国チェーンのサービス業や小売り店は確かに効率が良く安いが、地に
足がついた産業ではない。駅前商店街がシャッター商店街となっている
現状から再起するための方策は地域再生のためになんとしても必要
1)大規模店舗法の規制強化

2)酒と煙草の販売は全国チェーンの企業には例外なく認めない
 高齢で低収入の方々、失業した若者など、社会的弱者にのみ
 専売を許す。

■まとめ
 高額所得の個人所得税強化、資産関連課税(利子、証券取り引きの利益
など)強化により、赤字国債なしで10兆円程度の増税をしなければ
ならない。
 このような増税は困っている人々には無関係。この増税により、
医療・介護・農林水産業の体力を強化し、同時に医療・介護・農林水産
業への雇用を数十万人規模で増大することは、まったく容易であろう。
 民主党などの全政党に真剣な検討を望むものである。

公的医療は相互扶助の制度

/** 本田 宏先生のブログへのコメントを少し修正して転載 **/

澤田石 順と申します。某大学医学部6年さんの書き込み、感動しました。

■某大学医学部6年さんへ
▽自分のこと
私は平成元年に卒業し、最初の四年余りは脳神経外科。地方(私は秋田県)の脳外科医師は
ポケベルなしの自由日が年に数日しかないことを知った上で、「日本国も先進国並みに
医者が増えて、十年後には脳外科医師といえども月に二日程度の休みがとれることは
間違いない。そうなったら、月に二日間の休みには好きな山登りをしよう」と考えた
のでした。学生の甘さというか、日本国の医療政策を知らなかったのでした。
 卒後三年目頃、明確に判明したのは日本国の脳神経外科医師は、国家の政策が今の
ままである限りは、何十年たっても年に数日しか自由日がないこと、そもそも日本国で
医師を続ける限りは、当直という夜間勤務の前後での通常勤務はずっと続き、夜間勤務
がない平日であってもいつでも呼ばれたら病院にいかないといけないこと。
 私がもしも脳外科の仕事以外に楽しみがまったくない人間でしたら一生をささげて
いたと思いますが、自分には医療以外の他の目標と楽しみがあり、脳外科を秋田県
やっていたらこのまま終わってしまうのが恐ろしくなりました。
 たまたまそのころ(1992年1月)、高校山岳部のOB会があり1995年にヒマラヤの8000
メートル峰に登頂する企画があり、お前はどうだといわれました。
 3分ほど熟慮し、脳外科をやめて登頂することを決意したのでした。予定とおりに
1993年9月に医局を脱退しサラリーマンとなり、1995年に登頂を果たし、同年の末から
救急医療の仕事を再開しました。再開後一年余りは徳洲会病院で三日に一回当直で
新卒扱いの研修医をやり、その後いろいろとあり、2002年1月いっぱいで救急医療
は終了。

▼アドバイス
 私事が長くなりましたが、私のアドバイスは「医療政策を学生時代にじっくりと
検討するべき。」ということではありません。
 しっかりと医療政策とその方向性については勉強してください。もしも私が学生時代に
1983年の医療費亡国論とその議論が実効性をすでに有していたことをちゃんと理解できてい
たらば、自分は浅知恵でこう結論した危険があります。
 「脳外科など論外。奴隷状態が一生続く。これからは眼科などの報われる
  診療科を選択するべき。臨床医ではなく保健所勤務など給料は安くても
  まともな生活ができる仕事をするのがよい」
もしも浅知恵があれば、自分は最悪の場合に今頃は厚生労働省に勤務していて、
医師および患者を迫害する立場になっていたかも知れません。私はいろいろな
ところで、厚生労働省の原課長という方を批判してます。彼は非常に評判が悪い厚生労働省
官僚ですが、彼は自治医科大学卒業の医師なのです。彼は現場医療の経験がほとんどないため、
一人当たりへの公的医療費削減原理主義をそのまま正義とみなして、あのような政策を推進し、
報道関係者の前で堂々と語っています。厚生労働省の原課長個人は決して悪人ではなく、
真面目で真剣に「一人当たりの医療費削減という枠内で」頑張っているのです。彼の人柄や仕事
への姿勢については、前中医協会長の土田先生から直接聞きましたので間違いないこと。
 自分に浅知恵がなかったからこそ、過労死しかねないどころか、年々過労死の確率が高まり
そうな診療科目を選択したのであり、そのことは財産になったということを強調したいので
す。本田先生はもちろん、私の友人の大多数は卒後20年のこの時点で今でも救急医療で
頑張ってます。私は「立ち去りました」。しかしそれでも2002年の1月までは救急医療にたずさわり
月に平均4日は36時間以上連続勤務しておりましたから、立ち去ったことについて良心の痛みは
ずっとありますが、発言する資格はあると感じております。立ち去ったからこそ、救急医療にたず
さわる医師らとは比較にならないほどの自由時間ができまた。でありますから、救急医療で
頑張っている医師らの少なくとも10倍程度は発言しなければならないと決意してます。
 この決意が固まるきっかけは、本田先生の「勤務医よ、戦え」ブログなのであります。
小松 秀樹先生の「医療崩壊」を読んだことも、自分が覚醒する契機となりました。
 本田先生のブログを読み始めたのは2006年11月、医療制度研究会への加入は2007年4月。最初の
医療制度研究会講演の二次会で本田先生と直接語ることができて、自分の生き方は決定的に
変わってしまったのでした。

 某大学医学部6年さん、どの診療科を選択するかは好み、あるいはなりゆきに任せる
のがよいです。医療政策の動向とか、当面の厳しさなどの「浅知恵」で選択するのでは
なく「気合」で、あるいは「公的精神」(もっとも医師不足のところを選ぶ)で!!

 自分がやりたい診療科目を選択せよ。まよったらば、もっとも厳しく、なおかつ
もっとも報われないところを選択してほしい」ということなのであります。

    過労死と訴訟の危険が高いの診療科目を!!

なぜならば、
    過労死と訴訟の危険が高い診療科目こそ、もっともやりがいがある
からです。

さらに、
    現時点で過労死と訴訟の危険が高い診療科目こそ、あと10年も経過したらば
    もっとも手厚く保護されるであろうから
です。

▼医学部の学生さんへ
本田先生が愛読されている、塩野七生さんの「ローマ人の物語」は自分もすすめます。
公的精神、公的幸福、公的自由という日本社会にはなじみのない概念、生き方を学ぶこと
ができますから。私的幸福および私的自由すら、この前の戦争以前には抑圧されてましたが
戦後に成立した憲法により私的幸福・自由はきちんと保護されるようになり、日本国の市民は
私的幸福・自由の追求は当然のこととみなし、私的幸福・自由を実際に追求するようになり
ました。そのことはよいのですが、公的幸福・自由という欧米先進国における理想はまったく
浸透することがなかったのです。これは仕方ないことです。理由を述べていきます。
 もともと日本国の社会には「困ったときはお互い様」という相互扶助の精神が村々に生きて
おりました。相互扶助の精神は、日本社会においては「異質なものの排除」につながることが
問題として指摘できます。つまり「村八分」です。 戦後の憲法により私的自由・幸福の追求
が現実に可能となりましたが、戦後の日本社会は古き日本にあった良い部分、つまり相互扶助の
精神・慣行を否定してしまったのです。個人の自由ばかりになってしまった。
 個人の自由というものは欧米先進国においては、国家権力による不当な侵害から個人の生活を
防衛するためのものとして発展しました。欧米先進国、つまり古代ローマを継承した国々においては、
「個人の自由」という概念が発達するより前に、知的ないし経済的エリートの責務は私的利益を離れ
た公的な活動であることが当然でした。たまたま国家という制度が、特に国民国家が発達したために、
中央政府の権力が強くなり私人に対する統制が強まり、「政府からの自由」、「法の支配」の概念と
法基盤が発展したのです。そのような発展過程において、エリートの責務という概念はずっといき
続けてました。
 日本国の幸運はこの前の戦争で負けたあとに、個人的自由をきちんと守る憲法が成立したことなの
です。が、もともと日本に存続していた相互扶助の精神・慣行が、戦前の文化はすべて悪という
短絡的な見方により葬りさられてしまったのは不運でした。「不運」というよりは、必然的な経過
だったといえます。

 学生さんには、塩野七生さんの「ローマ人の物語」をもちろん必読書としてすすめますが、
もう一人、ハナー・アレントという政治哲学者の著作に親しまれることもすすめます。あなたが
公的保険医療にたずさわるとしたら、公的自由および公的幸福の追求に関して哲学的な基礎を
構築する必要がありますから。 日本の著作では、「葉隠」などの武士道ものをすすめます。

 書物などよりもっと大切なことは、学生時代に現場にふれることです。救急医療の現場より
も、在宅医療、老人保健施設療養病棟特別養護老人ホームなどの現場で奉仕活動をしたり
あるいは短期見学をすること。救急医療からのその先にこそ、もっと深刻な現実があります。
救急医療の最前線は目立ちはしますが、氷山の水面上の世界の小さなことなのです。どのみち
卒後は救急医療の現場にただちにいくわけですから、学生時代にこそ、そこから先の現場を
見ることが求められると私は考えます。(私は学生時代に登山ばかりしていたのではなくて
社会衛生部というサークルの活動で毎週のように特別養護老人ホームを訪問してました)。

 医学部の学生さんには、介護の現場、介護に従事する人々の恐るべき低賃金などぜひとも
生でしっていただきたいと思います。あるいは、国保の保険料が払えないために医療機関
受診をしなくなっている不幸な方々を支援する活動への参加など。

 医学部の学生時代において重要だと私が思うことを順番に列挙します。

 第一、体力強化: 卒後は体力なくしては生きてはいけません。
 第二、救急医療とはことなる介護・在宅医療の現場を見ること
 第三、公的自由・公的幸福・公的精神ということについて勉強すること
 第四、純粋な医学的知識の向上

■x様へのコメント
>現在の医療の荒廃は、経済界の政治支配で生じていると思います
表面的な現象はそうなのですが、根っこにあるのは、日本国の市民の圧倒的多数が
私的自由にめざめてしまい、その結果として、市民のほとんどが経済という私的な利益以外に
人生の目標がなくなったことにあるのではないでしょうか。もちろん敗戦後の荒廃から
立ち直るためには経済第一であって当然でした。幸運にも経済第一主義で成功したため
食料は十分にほぼ全市民にいきわたるようになりました。食糧事情が改善したために
寿命が飛躍的に延びました。寿命の延長において医療という技術が果たした役割は
小さなものだと思います。経済が成長したからこそ、食糧事情が改善し、衛生習慣が
普及。栄養の改善と衛生の改善が平均寿命の延長の主因であり、抗生剤等の医療技術の
発展の寄与は小さいともう一度いいます。


▼一般市民の方々を含めて訴えます

 日本国の市民は、医療には完璧を求め、病院で死んだら常に医療事故を疑う人が
どんどん増加するにいたりました。医療に完璧を求めつつも、「これ以上は
税金も保険も値上げしたくない」。このような典型的日本国の市民には、公的な精神が
欠如しています。問題はここにあるのだと私は思います。少なくとも公的医療は相互
扶助の精神に基礎をおいているはずでしたし、そもそもの国民皆保険制度は
「助け合い」の制度だったと思います。いまや、みんなで困った時には助け合いましょう
という医療制度は変質して、「病気になったら医師は必ずなおしてくれ、医師の説明は納得
いくまでしてくれ、希望とおりの結果にならなかったら納得いくまで説明してくれ、
納得いかないときは裁判に訴える、医師が不注意で失敗したら刑事罰をあたえて当然」と
なってしまいました。
 患者は、もともとおらが村のセンセとして大事にしてきました。センセは○○んところの
次男坊の××という名前で識別される存在でした。
 センセはセンセで患者は名前がある村のじさま、タバコ屋の子供など、抽象的な存在では
なくて、つながりある人々でした。
 戦後、医者は患者を抽象化し、患者は医師を抽象化。つまり、お互いに道具としてみるように
なってしまったのです。道具同士で「おたがいさま、たすけあう」ことなどあるはずがありません。
全人的医療という外国の言葉はありますが、私にいわせるとその言葉は抽象的な「概念」に
すぎません。リハビリ医療においては「全人的な復権」という外国からきた「概念」があり
ますが、同じく学者の空論だと思います。今、目の前にいる患者さんは、「○○県生まれで
これこれの人生をおくってきて、バナナが大好きで、コレコレの生活をしてきた、×▼
という名前の人」。その患者さんの奥さんやおこさんもまたひとり一人名前があり、
人生歴がある、ただ一人のひと。

 日本国の市民らの大多数が根無し草になってしまった。社会学者はそのような人々を
大衆人と表現します。社会学者の言葉などどうでもよいのです。私の人生における目標の一つは
はコンビニ、学習塾、携帯電話を原則として法律で禁止することなのですが、それでも
自分はコンビニで買い物をした時は、店員の目をみてありがとう、とか、ご苦労様、とか
一言声をかけます。コンビニの店員は道具ではありません。患者にとって医者は道具に
すぎなくなってしまいました。医者にとっての患者もそうなってしまいました。

 医者にとっての患者、患者にとっての医者も道具になった以上は、医者が過労などに
より「治療を失敗した」あるいは「避けられない合併症がおこった」時に、患者が
医者を加害者として足蹴りにしたい気持ちになるのは当然のことであります。
 ただせめてわかってほしいのは、医師が刑事裁判で被告にされることは、医師が
患者さんの家族から殴られたり足蹴りにされるという肉体的な暴力よりももっとひどい
迫害だということ。厚生労働省が最近公開した第三次試案では医療事故の定義が
とうとう「医療のミスがないものも、あるものも含む」となりました。医療事故という
言葉は、明白な医療ミスの時に用いられるものであり、調査の結果ではじめて
「医療事故」か否かがわかるものでした。医師を迫害するための制度が最悪の
場合に今年中に国会で成立します。医師と患者はお互いを道具とみなすのではなく、
お互いが生身の人間として、助け合う存在のはずではないでしょうか。そもそも、
同じ市民、ムラ人です。

            澤田石 順 (平成元年卒業)
http://homepage1.nifty.com/jsawa/medical/

診療報酬に成果主義を入れてはならない

厚生労働省には、医療費削減以外に仕事の動機が一つもなくなったようである。医療費削減に貢献できたら昇進し、医療費削減が「上手」にできなかったり、医療費増額を唱えると昇進にひびくのであろう。

平成20年度の診療報酬改定において、回復期リハビリテーション病棟の診療報酬に成果主義を持ち込むという驚くべき提案がなされている。

厚生労働省の目的は、第一に回復期リハ病棟に対する医療支出削減・抑制。第二に、全国における回復期リハビリテーション病棟全体の自宅退院率向上。自宅退院は医療費が安いというただそれだけの理由である。一律に入院料を削減し、同時に成果主義を導入するために、成果主義の反人間的作用が効果的に発揮されることになる。

その政策は意図的な「間接的大量殺人」であり意図的な「棄民政策」である。

■「診療報酬への成果主義導入」反対のベージ
http://homepage1.nifty.com/jsawa/medical/

厚生労働省官僚にとっての「成果」は医療費削減以外にない。診療報酬に成果主義を導入するということは、公的保険制度においては許されざる暴挙であり、禁じて手である。
厚生労働省が本気で実行しようとしている「診療報酬への成果主義導入」は憲法25条に規定されている生存権に違反しており、人間が早期に死亡することを誘導する政策であるから刑事罰が与えられるべき犯罪行為である。反人間的などという生易しい言葉では表現できない。ナチスによる行政的大量殺人は直接的殺人であったが、厚生労働省による棄民政策ナチスほどは規模が大きくはないし直接に厚生労働省ガス室を運営しているわけではない。しかし、行政的な「棄民化」の効果は早期死亡や重度障害固定であり、行政機関による意図的な犯罪である点ではナチスの行政的大量虐殺とかわらない。
官僚は口先ではきれいごとを唱えており犯罪行為をしている自覚すらないようだ。

是非とも上記のホームページにある長大な文書を印刷して読んでいただきたい。

人が何百人単位で早期に死亡することになることは現時点で予見可能であり、我々には政策の実行をとめる人としての義務がある。

■犯罪の遂行を事前に停止させるためには
1)医療関係者や市民が一人でも多く行動を開始し、声を官僚、マスコミ、政治家などに広く伝えること
2)行政による巨大な規模の犯罪が実行されんとしていることについて、東京地検、地方の裁判所などに情報を文書で提供する
3)日本弁護士連合会の人権委員会や各地の日弁連支部人権委員会に、行政による全国規模の人権侵害が4月から始まりそうなことを文書で伝え、裁判所による執行停止命令をかちとるための闘争を開始しよう!!!

★★コメントのこと
「棄民」政策反対のページ http://homepage1.nifty.com/jsawa/medical/
へのコメントは、このブログのこページに書いて下さい

医療と介護に関する中央政府の政策を妥当化するために

これは思索、そして行動のためのメモである。内容はどんどん肉付けされ、修正されていくことであろう。


■医療と介護に関係する中央政府の政策の作成手続きに関する一般法制定
 官僚であれ民間人であれ、政策を立案することはできてもその結果を正しく予測することは基本的にできない。予測することはできなくても、政策の失敗を事前に定義することは容易にできる。官僚の大多数が持っている幻想は、政策により社会を望む方向に変革できるという設計主義の信念である。官僚は政策の結果を予想できるという幻想も有している。さらに悪いことに、官僚は政策の結果が失敗であっても自ら認めることはできない。官僚は政策の失敗が巨大となり市民や報道機関からの圧力があってはじめて失敗を事実上認めるが、そのようなことは希である。官僚個人は自らの無謬性を本気で信じているわけではないが、組織としてそのようにふるまわないと官僚組織の中での評価が下がるために無謬のふりをせざるをえないという生理を持っている。
 我々の関心は医療保険および介護保険による助け合い制度における厚労省の新政策および政策変更が人々にとって妥当なものとなる確率を高めること、および厚労省の新政策および政策変更の失敗を早期に是正できる確率を高めることである。道路行政やダム建設などに関する中央官庁の政策も失敗する事例が成功事例よりも多いと思われるが、医療関係の政策はは人命および人々の幸福に直接かかわるため、厚労省の政策のみに関しての一般法の制定を点案する。
 厚労省のいかなる政策も事前に成功の定義も失敗の定義もされてないために、実施後に明白に失敗であっても、厚労省は失敗と認めることはまずない。希に失敗を認識することがあるものの、政策の是正に至るまでに長期間を必要とし、それまでの間の被害者は放置され何の損害賠償もない。厚労省が失敗を事前に定義することを義務づけることにより、失敗した政策の是正が速やかになることが期待される。また失敗するであろう政策が実行されることがすくなくなるであろう。
 カール・ポパーの言う反証可能性(refutability)なき仮説は科学的仮説ではないという主張を自明とみなす。科学的仮説の反証可能性を社会的政策に応用することができない根拠はみあたらない。すべての政策は仮説とみなすことができないという一般的な論拠を見出す事はできない。すべての政策は実験とみなすことができよう。

 □厚労省が新政策ないし政策変更を検討するにあたり、サービスに従事する専門家ないし専門家組織、およびサービスの受益者の意見を聴取することを義務化
 □厚労省中央官庁の官僚は新政策ないし政策変更を検討するにあたり、サービスの現場を全国50箇所以上、それぞれ一ヶ月にわたり視察し、事情聴取することを義務化
 □厚労省の新政策ないし政策変更の成果測定手段と成果測定の責任者を定義することを義務化
 □厚労省の新政策ないし政策変更の失敗を事前に定義することを義務化
 □厚労省による新政策ないし政策変更の失敗の事前定義は国会での議決を必要とすることを法律で規定
 □厚労省による新政策ないし政策変更の失敗の定義に関して、パブリックコメントを求めることを法律で規定(これまでは厚労省は行おうとする政策に関してのみ意見を求めていた)

■医療と介護に関係する中央政府の政策に関する市民による変更要求を中央政府が扱う手続きに関する一般法制定
 □市民による一定数(一万くらいが妥当か)の署名がある政策変更要求を厚労省は必ず受理しなければならない: これを「市民による有効な要求」と呼称
 □市民による有効な要求を厚労省は1週間以内に公表しなければならない
 □市民による有効な要求を厚労省は1週間以内に全国会議員に文書でわたさなければならない
 □市民による有効な要求に対する回答を厚労省は3ヶ月以内に公表しなければならない
 □市民による有効な要求に対する回答を厚労省は3ヶ月以内に全国会議員に文書でわたさなければならない
 □回答には要求の拒否理由ないし要求を受け入れる理由とその根拠を示さねばならない
 □回答が要求の拒否であれば、要求拒否により市民が受けつづけると想定されるあらゆる被害に関して列挙し、市民の被害に関して金銭的コストを明記し、要求を受け入れる場合の金銭的コストをも明示しなければならない。
 □回答が要求の拒否であれば、その理由は市民の被害を救済するための金銭的コストが大きいことによるか、あるいは市民の要求の容認が市民にとって害になるかのどちらか、あるいは双方と明言しなければならない
 □要求の拒否回答は国会で議決されてはじめて有効となる
 □要求の拒否回答が国会で議決されない場合は、三ヶ月以内にあらためて回答を公表しなければならない

■現に存在している中央政府の誤った政策を不法行為として司法の裁きに訴える準備
 □弁護士の有志に知恵を拝借
 □地方自治体が医療保険税滞納者に対する資格証明書発行や財産の差し押えに起因する死亡や重篤な障害: これは全国各地で日々おこっていることであり、被告は地方政府と中央政府の双方
 □リハの日数制限により生活機能が低下した被害者の提訴支援: 被告は厚労省官僚と中央政府そのもの
 □政策は形式的には国会において法として成立した場合は、国会自体の作為の罪として
 □政策が行政指導の形式ならば、行政手続法違反として

厚労省の誤った政策を発見したら速やかに、司法の裁きに訴える準備をすると予告する
▼Project Preemptive First Attack against MHLW (PPFA)
 HHLW: MHLW Ministry of Health, Labour and Welfare

 イスラエルフセイン政権がフランスの援助で核爆弾をつくる目的で原子炉を建設したことを知り、原子炉が稼動する前の段階で堂々と空爆しました。空爆後にイスラエルはその軍事行動を Preemptive First Attack と表現しました。そもそも preemptive attack は軍事用語で先制攻撃ですが、first attack も先制攻撃です。Preemptive には先物買いというニュアンスがあります。イスラエルが国際社会に訴えたのは、イラクの原子炉空爆空爆した理由はイラクとの開戦ではない、確かにそれは先制攻撃(first attack)ではあるが中東における将来の惨禍を予防するためのものだということでした。落合 信彦氏は当時 Preemptive First Attack を「防御的先制攻撃」と表現しました。

 私は厚労省(MHLW)に対する防御的先制攻撃(PFA)という穏当ならざる表現を含むプロジェクトを開始することを提案します。なぜそんなことが必要かは医療の再生を願う人々には自明です。すなわち、この10年以上前から、厚労省が次から次へとうちだす新政策や政策の変更のほとんどが市民、医療従事者の双方にとって有害であり、医療の崩壊がますます加速しています。薬害エイズにしろ最近の肝炎の問題にしろ、被害が明白になってから、中央政府が救済に乗り出すまでには途方もない時間がかかります。
 犠牲者が死亡した後に遺族がお金をもらったとしても、政策が適正化されても、死んだ人は生き返りません。厚労省の政策による犠牲者が死亡に到らない場合であっても、患者と家族の犠牲を後から支払う金銭で本当に償うことはできません。
 厚労省が新政策ないし政策の変更を打ち出したら可及的速やかに想定される被害を厚労省、報道機関、国会議員、一般市民、医療関係者、患者・家族に知らせることが必要だと思います。厚労省に対しては被害が明確になったら、法的手続きに入ることを公然と予告するのです。官僚は個人として訴えられることを極度に恐れます。日本医療機能評価機構という第三者期間をでっちあげた動機は小松 秀樹先生の分析が示唆するように、厚労省官僚が医療の安全についての責任を「第三者」にゆだねたいからだと私は思います。
 厚労省は新政策や政策変更を思い付くと、学識経験者と関係者による審議会を設けて
政策を提案するのは第三者のごとく偽装します。厚労省厚労省のいいなりになりそうな人物を多数派とし、座長には必ず厚労省の操り人形を指名します。この手口はあまりにも使い古されており、今や「審議会」なるものの中立性を信じる人はほとんど皆無になってます。

 厚労省の審議会はアリバイ作りであり自作自演ですが、これまでのところは実効性がありました。パブリックコメントの募集もアリバイ作りとしてそれなりに実効的でした。その理由の1つは、審議会の「提案」を厚労省としての新政策や政策変更として決定するまでの過程において、官僚は個人的に訴訟に矢面にたたさせるかもしれないとの恐怖をまったく味わわなかったからだと思います。厚労省の新政策や政策変更がどんな被害をもたらすと予測されるかが、広く社会に知られること、および、実際に被害が現実のものになったら、訴訟を開始すると本気で社会に声明する人々が存在することが知られることにより、厚労省の官僚に対する抑止力がそれなりに働くと思うのです。新政策や政策変更に反対する市民が防御的先制攻撃をすることが無効か否か、やってみないとわからないことです。私は有効との仮説を実験してみようと提案する次第です。
 検討事項は次のようなこと。

 □厚労省官僚の政策による被害者が官僚を提訴する法律的根拠を探る
  □弁護士の方々に知恵をお借りする
  □民法719条の共同不法行為?
  □政策が行政指導ならば行政手続法が有効な攻撃手段?
   See http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E6%89%8B%E7%B6%9A%E6%B3%95
   See http://d.hatena.ne.jp/sawataishi/20070406/1175865757#tb (my blob)

 □厚労省の新政策が予告されたら直ちに、日本医師会、全医連、有志の弁護士らは協業して、想定される被害、被害者を特定をする方法に関して合意文書を作成する。

 □合意文を厚労省の関係部署、各政党、報道機関に送付し、被害者が特定されたならば直ちに厚労省不法行為として提訴の手続きに入ると通告

 □政策決定手続きの不法行為性: 医療提供者と患者・家族の訴えを無視し、現場を直接みないこと自体の不法性

 □政策により死亡したり生活が困窮したという被害と政策の因果関係が明白なことによる損害賠償請求

中央政府の政策を決めるのは原理的に中央政府ではない!

 本田 宏先生の『勤務医よ、闘え』というブログに投稿した文章を改変して掲載いたします。

「国」という言葉を使用しないこと、言葉の魔力に気をつけましょう

 医療政策というものは「国」が決めるものだと誤解している方があまりにも多いことよ。その根底にあるのは「国」ということについての無理解ないしは認識不足だと思います。国とは国家のこと。国家は領土、法体系、市民の総体についての呼称であり、先進国の場合は、三権分立の体制になっています。日本は先進国とは言えないかもしれませんが、それでも長らく三権分立体制にあります。
 医療崩壊は望ましくないが、医療政策の変更は不可能だと最初からあきらめている方々が「国」という言葉を使用する傾向にあることに最近気付きました。
 中央政府という意味で「国」という用語を用いているのかも知れませんがそうではないようです。「国はウンヌン」という擬人法はよくないと思います。「国」というものは人ではないので、ある決った意志を持っているわけではなく、惰性で動いてます。たとえて言えば、超巨大な船がある一定速度で動いていて、しかもその船には目も頭脳もなく、少しくらい押しても一度定まった方向からそれることはなかなかない。明治時代にできた時代錯誤の法律がずっと効力を持っていて、困っている人々が何十年も運動してかろうじて改正されたり、解釈変更でお茶をにごされるようなことを見ると、私の云う意味がわかるのではないかと思います。(例: 離婚後 300日以内に生まれた子供の問題)
 目と頭脳は官僚だと思えてしまうかも知れませんが、それこそ甚だしい誤解で、官僚は目であることはあるかも知れませんが、決して頭脳ではなく単なる計算機でして、惰性で定まっている方向に合わせて計算の辻褄を合わせるのが官僚であり、方向自体が正しいか否かを問う事は官僚の仕事ではなく、官僚にできることではありません。
 「国」には意志、思考、感情はありません。「国」には特定の政策が存在するように思えるのかも知れませんが、それは現象だけしか見てないからの誤解だと断言します。国という言葉ではなく、中央政府という用語を使用することで、「国の決めていることだから」と諦めている方々が思考を再開する契機になるのではないか。
 「国の政策はこうだから」という発言を聞くと、なんとなく納得してしまう人が少なくないと思いますが、「中央中央政府の政策はこうだから」という言い方ですと、ニュアンスが違ってきませんか。三権分立ということが、中央政府という言葉から直ちに連想されますから、「まてよ、よく考えると政府の政策を決めるのは政府ではなく国会議員を通じての市民なのだ」ということに気付きやすくなります。

中央政府の政策を動かすのは国会議員と市民である

 医療崩壊を憂える人々は中央政府の政策を批判しているのです。国というまとまりを批判してるのではありませんし、国というものを批判することはできません。他国の人なら日本という国家を批判することができますし、その資格があります。
 中央政府のいかなる政策であれ、国会で成立した法律ないし予算案により定義されており、基本的にその通りに実行されます。法律と予算案の作成には諸官庁の官僚がかかわりますが、官僚とは別に国会議員もそれに関与します。国会議員は有権者の票を買うために、有権者の要求を勘案します。有権者の票を買うことばかりしか考えない政治家が多いのは事実ですが、日本の医療をもっと良くしたいと本気で決意している国会議員も少しはおります。
 したがって、医療崩壊をこのまま放置してはならないと決意している人々がするべきことは、身の回りの人々(身近に接する医療人および非医療人)に対して、語りかけて共に考えて行くことだと思います。インターネットという半公共空間で言論活動をするだけでは不足だと思います。
 目標で共通する人々が方法論について議論して、有効そうなことを一人一人実行して行く、それで良しと思います。
 残念ながら、中央政府の政策は変わらないという前提の方々と、私などの中央政府の政策を変更することを目的としている人々では議論が成立しない場面が多いです。しかしながら、医者に押し付けられている雑用を非医療専門職に代行してもらうようなことについては、「あきらめ派」とで主張は一致してます。

政策の変更を行うために必要なこと

 医療崩壊の加速度を減じることを決意している人々こそが、中央政府の政策変更の提言をしていかねばなりません。そのためには次のようなことが必要。

  a) 過去の成功と失敗をしっかり把握
  b) 現在の現実をしっかりと把握
  c) 将来の目標を決定する
  d) a)〜c)を基礎として、仮説を立てて方法を提案する

 くり返しになりますが、官僚には a) 〜 d) のいずれも行う能力がありません。能力がないというより、そもそもそのような立場にありません。このことを誤解してはならないと思います。官僚の役割は統計解析のための集計データを用意すること、もう1つは限られた予算の中での数値の辻褄合わせです。現場を決して知ることのない官僚に対して、「現場の現実を無視して数値ばかり考えやがって、ケシカラン」と批判することは容易で精神衛生上のガス抜きにはなりますが、そんなことは無意味で時間の無駄という意味では有害ではないでしょうか。官僚が市民の意見を積極的に聞いたり、現場を本気で見に行くなどは、人類史上のいかなる国家においてもなかったし、今後もありえないと思います。犬が「コケコッコー」と鳴く事が永遠にないようなものです。
 だから、医療崩壊の加速度を食い止めようと決意する人々は、目標を設定し、そのための手段である政策を提言していく他ありません。
 「官僚の役割は統計解析のための集計データを用意すること」と言いましたが、問題は官僚がまともなデータを公開していないばかりか、不備なデータしかないこと。例えば、厚労省は現在生存している医師の数すら把握していません。ましてや、実際に保険医療にたずさわっている医師の数など全く不明のようです。女性医師が例えば平均25才で医師免許を取得するとして、65才までの間に何年間、保険医療に携わるか? こんなことは誰にもわかりません。男性のデータもありません。このように基礎的なデータの不備については、医師会などの団体が官僚に直接要求することが必要だと思います。国会議員の国会質問を通じての要求ももちろん有効です。
 既に医療崩壊の加速度を減じるための短期的な、および長期的な政策については、言い尽くされた感がありますので、ここには具体的な提案は記しません。

目標を共有する人々のつながりを強化していきましょう

 先日、医療制度研究会の講演があり、本田 宏先生らと語り合うことができました。実際に会って話しをするということは大変なことで、気合が何倍にもなりました。インターネットの前、パソコン通信という閉鎖的なネットワークの頃、思想フォーラムとか、山登りフォーラムなどいろいろな small interest group の人々の間で、オフ会(off line meeting)が盛んでした。パソ通ではハンドルネームで語り合ってますので、オフ会でもハンドルネームで呼び会うのが普通でなんとも言えないものでしたが、生身の人間同志での語り合いは格別なものがありました。
 インターネットが主流となってからは、パソ通自体がほとんど消滅し、パソ通のオフ会は当然なくなりましたが、それに代わってインターネットで知り合った人々のオフ会が増えたということはないようです。
 インターネットのブログなどでの議論だけでは不足だと思います。有志で時間と場所を決めて、会合を持ちませんか。私は横浜市東急田園都市線沿線に住んでおります。自分は土日は完全休日で、当直は毎週木曜日。東京近辺で6月中にでも呑みながらでもやりませんか。3人までの小人数なら、例えば、新宿西口の想い出横丁で。賛同する方は、jsawa@attglobal.net まで E-mail を。(私は愛煙家ですが、煙草の煙が嫌いな方の前では呑んでいても吸わないことができますのでご心配なく)
 
※※良書を紹介
 鈴木 厚医師の『崩壊する日本の医療』 2006/11/1 発行、秀和システム。これはポケット解説と銘打っており、244 pages にコンパクトにまとまってまして、医療崩壊関連図書では私の判定では最良の必読書。もちろん、小松 秀樹医師の『医療崩壊』(2006/5/30 発行、朝日新聞社)は今更紹介するまでもない必読書ですが、もしもどちらも読まれてないならば、鈴木先生のを購入されことを薦めたいと思います。

人手不足の医療現場では、安心と安全が対立する

 現実の急性期医療は圧倒的なマンパワー不足におちいってます。医師について言えば、急性期から療養型の病院へあるいは開業への流れが加速しており、大学の医局からの医師派遣が減り、同時に女性医師が増大しているため、医療崩壊ということが進行しております。
 さて、このような崩壊過程にある急性期医療の現場において、近年は「安全」ということがしきりに強調されてきております。結果が悪いと重過失などなくても、家族がマスコミに通報して報道されて、一方的に医療者が悪人とされがちになりました。実際に訴訟となり、民事で賠償金、刑事で有罪とされることが急増しました。
 昔は医師が診察しても変わりない場合は、カルテには何も記載しないことが少なくなかったと思いますが、今は管理的立場の医師は現場の医師に対して、「記載がないと患者をみてないと裁判官が解釈するので、しっかりと書きなさい」と要求します。現場の医師も訴訟の恐さはよく知ってますので、昔よりははるかによく書くようになりました。カルテ記載の増加程度のことならたいしたことでないので良いのです。
 ところが、カルテに記載がしっかりとあろうがなかろうが、結果が悪いと裁判という風潮が一定限度を越えてしまったために、それ以上のことが現場の医師や看護師に求められるようになりました。
 病院を運営する立場の人々は、安全のためにということで、ワラにもすがる思いで、いろいろな対策にすがりつくようになりました。いかなる「対策」も、患者さんと医師・看護師が接する時間を削減します、たとえ残業を増やしても。なぜなら、診療報酬の削減が継続しており、かつ、医師と看護師の増加は微々たるものですから、マンパワーの増大など不可能で、逆に人手がますます不足してきているからです。このような現実の中で、「安全対策」のための委員会、書類、複雑な業務手続きが増加するばかり。同時に、患者・家族への説明に要する時間も増大を続けてます。「安全」のためにということで、患者さんに直接かかわらない仕事が増大したため、実質的な「安全」が低下してきているのが現実におきていることなのです。
 現場の医師や看護師の大多数は「安全」と訴訟対策のための諸業務増加により、「本当の」仕事をする時間が不足したり、時間外労働が増加しているために、こんなふうに思っているのではないでしょうか。

 『こんなことよりも、患者さんをもっとしっかり診る時間が欲しい。
  こんなことをしているとかえって危険が高まる。
  医療ミスをしないための仕事や、結果が悪い時にそなえてのアリバイ作り
  のための説明と記載にこれだけ時間をついやしていると、医療ミスが起き
  るのではないのか。かえって不安。安全は低下しているのでは?』

ここまで書いてきたことと、別のところで私が述べてきたことを要約しましょう。

(1)安全のための諸業務の増大は、病院管理職の安心の強化にはなる
 「これだけしっかりと委員会、書類(マニュアル等)、手続きを整備して
 いるのだから、有害事象が起きたらそれは現場の医師や看護師がマニュアル
 等をきちんと守らないからだ」と責任を回避することができるため

(2)安全のための諸業務が増大したため、実質的な安全が低下した

(3)安全のための諸業務の増大は、現場の医師・看護師の不安を増長した

(4)安全のための諸業務の増大は、患者さんの安全を低下させている

(5)患者さんは安全のための諸業務が多いところを選択するわけではない

(6)患者さんは、医師が当直明けなどの極度の疲労状態で検査や手術をすることを知ったら安心できない

(7)医師は安全のための諸業務が多いところに患者さんを紹介するわけではない

(8)安全のための諸業務の増大は、経営的にはマイナスとしかならない

(9)安全のための諸業務が膨大なことが、訴訟発生確率を低下させる証拠はない

(10)安全のための諸業務が膨大なことが、訴訟になった時に病院が敗訴する
 確率を低下させる根拠はない

(11)日本医療機能評価機構の病院機能評価の受審による間接業務の増大は
 特に大問題で、病院機能評価の受審により医療の安全が実質的に
 高まる証拠は皆無で、大多数の病院では医療の安全が低下したと
 考えられる

(12)日本医療機能評価機構の病院機能評価の受審は、病院の管理職と
 厚労省官僚の「安心」にはなっているようである

(13)日本医療機能評価機構厚生労働省官僚の天下りのためにだけ存在するの
 ではなく、医療の安全を高める方策の実行を厚労省が放棄して、丸なげする
 ためにもある(薬害エイズのごとく、厚労省の官僚が訴えられる確率を減じる)
     ※薬害エイズで訴えられた厚労省官僚には本気で同情します
      官僚が提訴されないためには、現場で実行可能かどうかにかかわ
      らず、ルールを厳しくする他ありません。あるいはルールの制定を
      民間に任せること(責任回避=丸投げ)。

(14)厚生労働省の官僚は医療の安全を高める政策には関心がない
 もしそのような政策を実行する決意を持っているとしたら、圧倒的に不足する
 医師や看護師の数を増やすこと、および、医療費の増大が必要であることを、
 堂々と政治家と国民に訴えるはずである


 マンパワーの増大がなく、業務効率の改善もないままに、安全のためにという名目で間接業務が増えたために、病院管理者にとっての「安心」は少し増大したかも知れませんが、現場における医療の質と安全が低下し、現場の安心が低下しいるということです。もともと医療は危険なもので、安全な医療ということはは有り得ません。安心できる医療は患者にとって有り得ないし、現場で診療をする医師・看護師にも有り得ません。

病院における診療をより「安全」に、より訴訟がおきにくくするための方策

 私は次のようなことを現在勤務している病院で強く主張しているところです。自分でできることは既に実行しています。

▼患者・家族に医療は永遠に危険なものだ、安全な医療など有り得ない、医療行為において安心などないということを、一般的に、具体的にしっかりと説明し、文書でも渡す。
 ▽説明の際には、人間と人間との語り合いとなるような雰囲気の醸成に努める
  純粋に医療的な話しの前に、患者さんが元気なころの生活ぶりや趣味
  出身地などを尋ねたり、自分の出身地や経歴について語ったり。
 ▽入院時には来院した家族のみか関係する重要な家族全員の文のコピーを
  手渡す
 ▽カルテには手渡しした文書のコピーを保存するが決してサインを求めない
 ▽説明文書のデータベースを充実させ、全医師が共有・改良していく

▼診療の標準化、特にチームとしての標準化
 ▽CVカテーテル挿入のルール等、標準的な方法を決めてどんどん実行
 ▽診療部と看護部の数名で、診療のチームとしての標準化
  プロジェクトを立ちあげて、診療のいろいろな分野に関して具体的な
  諸ルールを提案していく (心肺停止における実践のガイドライン
  など、課題はたんさんあります)

▼診療の標準化、特にチームとしての標準化
 ▽CVカテーテル挿入のルール等、標準的な方法の実践をどんどんおこなう
 ▽診療部と看護部の数名で、チームとしての診療標準化プロジェクトを
  立ちあげて、診療のいろいろな分野に関して具体的な諸ルールを提案していく
 ▽嚥下障害、排泄の問題(特に過活動膀胱)など、患者さんのADLやQOLに重要な
  ことがらについては、医師、看護師らの多職種で勉強会を行い、次いで
  定期的にカンファレンスを実行(スクリーニング→計画→実行→評価
  →実行内容改善→実行.......)
 ▽医師と医師とのチーム医療も推進するために、できるだけ日当直医師に
  診療の方針や治療の根拠を文書で伝える

▼医師・看護師ら医療専門職の間接業務を徹底して減らす
 その目的は、診療について考える時間と、患者と家族に直接かかわる時間を
 増やすこと
 ▽医師に求められる書類作成のうち事務職でできるところは事務職が行う
 ▽医療専門職が記載する書類を真に必要なもの以外は廃止
 ▽医療専門職が委員会に参加することは本当に必要なことに限る
 ▽患者のリハ室搬送など、医療職以外で実施できることについては
  賃金の安い非専門職の新規雇用により代行
 ▽病院機能評価の受審やISO 9001取得などカタチだけで、間接業務を増やし、医療の質向上にはならないどころか、低下につながりそうなことはやめる

▼医療専門職の間接業務を徹底して減らすための組織のあり方
 すなわち、これまでのような上意下達主義から現場主義への転換!!
 ▽現場の専門職に対して、患者と現場の双方にとって有用性に乏しい書類、
  業務手順、委員会を廃止したり改善することを提案するように病院として
  積極的に奨励する (TQMを開始)
 ▽トヨタなど一流企業はすべて現場主義だということを学習するための
  勉強会を実施する

▼医療専門職のマンパワー and/or 給料を増大するための方策
 コスト管理を徹底して実行して、浮いた金で人を増やしたり、給料を増やす!
 れは、医療専門職から選ばれる!病院となるための政策
 ▽診療部と看護部の数名(管理職は不可)で、どうしたらもっと働き安い職場
  にできるかのプロジェクトを立ちあげる: 理事長直属が良い
 ▽病院管理者による価格交渉
  ・例えば、水道代と電気代は値引き可能。真剣に取り組むべき
 ▽上意下達主義ではなく現場主義のコスト管理を開始する
  ・例えば: 電気代、水道代などが現場の者に見えるようにし、
   削減のアイデアを現場から募り、どんどん実行する
  ・例えば: カラー印刷は極力しない.........

「患者から選ばれる病院を目指そう」は死語

 「医療専門職から選ばれる病院を目指そう」がこれからの Key Word!!

病院機能評価の version 4/5やISO 9001の取得が患者の選択に関係ないことも、医療の質向上をもたらしていないことも『医師や看護師の常識』だと思われます。日本全国における病院の中で「患者が来てくれない」が課題のところは例外的であり、医療専門職が来てくれない、あるいはどんどん辞めて行くのが圧倒的多数の病院の泣き所ではないでしょうか。
 私が前述した提言は医療の質向上(患者さんの利益増大)、訴訟確率の低下を直接の目的としてますが、それらの政策は「医療専門職から選ばれる病院」にしようということでもあります。くり返しになりますが、そのための基本原則は以下の通り。

  • 医療専門職の間接業務を削減して、診療の実務にかかる時間を増加
  • 医療機能評価、ISO 9001など間接業務を増大させることはしない、やめる
  • 現場主義でコスト管理をする持続可能な実践を行う
  • チームとしての診療の標準化を実行する
  • コスト削減等により利益があがったら、専門職 and/or 非専門職のマンパワーを増大する

医師数・医療増加政策への賛成者と反対者が対立することの意味

 本田 宏先生のブログ http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/honda/ に既に書いた内容を加筆・修正して掲載することにしまた。今回の言説は基本的にメタ議論とでもいうべき抽象論であり、医師数を増加すべきか否かの価値判断にはあまり触れておりません。
 本題に入る前に明確に述べねばならないことを列挙いたします。

  • 理性が情念よりも高級であるとは、全く考えません
  • 『理詰めの夢は怪物をもたらす』という高名な哲学者の言明を真とみなしております
  • 「議論」も「意見発表会」(後述)もどちらも価値があると考えます

「目標が手段を決定する」という常識を確認しましょう

 医師の中には、医師の数の増員に反対する方がおります。理由は、希少価値が低下する、給料が下がる、質の低い医師が増えるなど。そのような方々の主張は論理的には完璧で、全く破綻しておりません。同様に、本田 宏先生らが医師増員と医療費増大を求める理論構成も完璧だと断言します。

a) 『まったく正反対の政策を主張しているのに、どちらの論拠も完璧ということはありえない』

b) 『どっちの政策が正しいかを諸証拠と論理で決定できるはずだ』

 a), b) を真とみなしていない方は半数に満たないのではないでしょうか。自分は、大学時代の、20才頃まではどちらも真と「論理的思考」により確信してました。
 どちらも偽だと情念で「わかる」ようになり、さらに「論理的に」はどちらも偽だと100%断言するようになったのは、25才頃だったと思います。
 ほんと、抽象的な語りで恐縮ですが、大変重要なことなのでなんとかして皆様に伝えていきたいと思います。もちろん、a) も b) も偽だとみなしている方々は以下の文章を読む必要がありません。

a) も b) も偽である根拠

 自分は理科系人間ではなく、文化系人間でもなく、どちらも好き。父親が極めて特異な生き方をしていたおかけで、ありのままの自然が好きで、人間ってのがまた好きでした。自然が好きなので数学や物理が面白く、人間が面白いので古典も文学も好き。
そのような私ですので、今でも読む書物も思索も自然科学と人文科学の両方でどちらが多いとも言えません。哲学と数学の双方から a) and b) が偽ということを説明できそうなので暇な方はお付き合い下さい。

【1】 『理性は情念の奴隷である』--人文科学からの根拠
 申すまでもなく、デイヴィッド・ヒューム(18世紀のイギリス経験主義哲学の大御所)の至言です。「理性は情念の奴隷」というキーワードで google で検索すると90件以上ヒットします。その中から1つ選択しました。
  http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~tit03611/2002a.html より引用します
/* 引用開始 */
この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた。このような解釈の前提になっているのは、ヒュームの哲学体系において、知識論が、情念論や道徳論に先立って完結した単位をなし、その地盤の上に情念論や道徳論が展開されるという把握であると思われるが、私は最近、これと反対の考え方に到達した。つまり、上記の言明は、理性の活動は情念の定めた範囲の内でしか行なわれ得ないことを述べている。言い換えれば、情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである。
/* 引用終了 */
 この引用で十分だと思われますが、私の言葉でこのブログにおける対立点に即して述べますと、『一人の人間は情念によって「好み」を選択するのであり、理性によって選択するのではない』ということです。『情念が選択するのであり、理性が選択するのではない』と表現を変えても良いです。選択の結果が、医師数増員反対であれ、増員賛成であれ、その「理由」というものは「論理」ではなく、情念だということです。
 医師数増加反対論の「論拠」は、医師の「希少価値」がなくなる、給料が下がるなどいろいろとありますが、よくよく考えると基礎にあるのは情念です。医師が増えるとありがたみが薄れるのが嫌だ、給料が下がると生活水準が下がるのがいやだ...、情念です。
 医師数増加論の「論拠」は過酷な労働環境とか、医療ミスを低下させることなどいろいろありますが、やはりよくよく考えると基礎にあるのは情念であると私は断言します。過酷な労働環境(待ち時間が長い文句をいわれる、結果が悪いと罵倒されたり訴訟になる)、医療ミスは起こしたくないが過労のためいつ起こすか心配.....などなどの情念。
 医師数を増加させるという「政策」の賛成、反対「論」とも基礎は情念なのであり、優劣の判定は原理的に不可能で、ましてやどちらが人間として「正しい」ということは言えるはずはありません。ところが、どちらの「論」者も、相手を理性により、具体的には「諸証拠」と「論理」により、打ちまかそうとするため、

【2】 ゲーデル不完全性定理 -- 自然科学からの根拠
 第1不完全性定理自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。』
第2不完全性定理自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。』
 ヒルベルトは数学の無矛盾性の証明を目標としていたのですが、ゲーデルは「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを証明しました。
 医師の皆様には釈迦に説法ですが、ユークリッド幾何学の公理からたくさんの定理が演繹されますが、公理そのものの「証明」は決してできないことも、非ユークリッド幾何学というユークリッド幾何学の公理とは異なる公理から発する幾何学があり、それはそれど現実世界の記述に有用。
 少し考えるとこの原理は数学以外に一般的に拡張できることがわかると思います。医師数増加という政策に関しての賛成ないし反対は、どちらかが「公理」となるのではありません。「公理」となりえるのは、次の c) or d) の命題。

 c) 『医師が過酷な労働環境で働くことは、医師にとっては良くない、患者にとっても良くない』
 d) 『医師の希少価値を維持すべきである』

 どちらを公理とするかで、政策が決定されるのであり、どちらが正しいかの判定は原理的に不可能。どちらを選択するかは情念によるほかないのです。どちらかを「公理」とみなすと、公理から演繹される政策は論理的、機械的な操作により簡単に決ります。「公理」というよりは、単純に「好み」ですね。ところが「好み」にもかかわらず、「公理」とみなしてしまう方が大多数なのだと思います。

議論と意見発表会の区別

 私は1980年代にNIFTY SERVE の FSHISOで政治哲学・哲学のフォーラムに参加しておりました。その頃の事を思い出しました。議論と「意見発表会」の区別をする必要があるということです。
 いわゆる「議論」には原理的に決着のつく議論と決着のつかない議論との二種類あります。前者を議論、後者を意見発表会と定義するのが良いと提唱します。
 目的が異なる論者の間では議論は成立しません。目的が一致する論者の間でのみ議論が成立し、そうでない論者の間での「議論」は「意見発表会」なのです。
 上記、c) を公理とみなす者と、d)を真とみなす者との話し合いは、意見発表会にならざるを得ないということ。ゲーデルやヒュームを持ち出すまでもなく、少し考えたらわかることなのですよ、実は。
 手段に関しては議論が成立すると言ってもいいでしょう。目標・目的に関しては、議論にはなり得ず、意見発表会にならざるをえないのです。
 議論が成立する条件はもう1つあります。仮説の真偽判定ということです。自然科学の諸論文の本質は、仮説の真偽判定と仮説に関する議論であり、諸論文による諸証拠に関して、専門雑誌や学会の場で議論が成立しています。
 繰り返しますが、c) or d) のどちらが正しいかということに関しては、議論が成立すことは絶対にないのです。どちらが正しいかということを判定するのは、もう1つ上のレベルの「公理」または「仮説」を設定しなければならないのです。次の章で解説します。
 例えば、私と医師数増加反対論者の間でかわされる言葉のやり取りは議論ではなく意見発表会なのです。これに対して、本田 宏先生と先生の政策に賛同する方々との間では、目標が一致しておりますから、方法についての議論が成立しており、とても実りが多いのです。

医師数・医療費増加という政策の是非決定に関する「仮説」ないし「公理」

 「上の」レベルの「公理」として考えられるのは。

e) 『人口構成で補正した市民一人当たりの医療費を増額させてはならない』
 この公理を採用すると、診療報酬はそのまま据え置きすべきで、老年人口の割合が増加することによる総医療費増大はそのまま容認することになります。医療行為の量が老年人口の増加により増えるため、医師の数を増やすことが必要となります。女性医師の割合とその増加を考慮して、更に医師数を増加させることが必要となります。

f) 『高齢者の全人口に占める割合を無視しての単純な市民一人当たりの医療費を増額させてはならない』
 この公理を採用すると、老人が増加しても総医療費は凍結ということなので、老人の医療費を低額にして低下させる必要があります。医師の数に関しては、凍結または削減ということになります。

g) OECD諸国の平均くらいに、医療費および医師数を増加させる
 これは本田先生の主張。このブログの医師の多くが賛同している「公理」。

 さらに「上の」レベルの「公理」として考えられるのは。

h) 日本国民は医療水準の維持のためとはいえ、市民一人当たりの租税等(社会保険料+税金)負担率の増額を容認しない

i) 日本国民は医療水準の維持のためには、市民一人当たりの租税等負担率の増額を容認するであろう

 厚労省の「公理」は e) と f) の中間ですが、e) に近いと思われます。厚労省が総医療費の削減を目的としている証拠を私は知りません。すべての証拠は、厚労省が医療費増加の加速度を減じることを目的としてことを示していると思います。
 よく考えると、h) and i) は公理としてとらえられるべきではなく、仮説なのです。h) or i) の仮説のどちらが真かを、情念でも論理でも判定することは絶対にできません。本田先生のごとく考える方々の運動が大いなる効果を発揮したならば、i) が真となり、効果が不十分ならば h) が真となる。そういうことなのではないでしょうか。
 市民の大多数がOECD諸国並みに医師数と医療費を増加するを容認することが世論となれば、国会議員(政党)は選挙で当選するために、そのことを政策として訴える傾向が強まります。このことは必要条件ではありますが、十分条件とはならないと思います。財政赤字と長期債務の問題があります。租税等負担率が増額された分だけ、医療費が増額されても、借金の量はまったく減らないどころか、膨らむばかりだからです。

 もう1つ「上の」レベルの「公理」ないし「仮説」を検討する必要があります。もちろん、医療費増加に相応する程度の租税等負担率の増額を市民の大多数が容認するとの前提で。

 j) 非医療費を十分に減額することは不可能なので、日本国が破産しないためには医療費増額の抑制は必須である

 k) 医療費の増額以上に、非医療費を十分に減額することは可能なので、日本国は破産をまぬがれることができる

 日本国の中央官庁のすべては j) を自明のこととしているのではないでしょうか。歳出削減において、政治家の力があまりにも弱いのが日本です。政治家に対して市民が「自分のところだけは削るな」と求めます。たまたま子供がいる有権者は小児医療だけは充実させろと要求し、たまたま現在高齢の方は老人医療は少なくともこれまで通りにしろ、癌の患者と家族は癌についての医療費は増額せよ、..........。
 j) と k) は医療を再生させようとする人々の努力により、どちらが真かの結果が変ってきますが、i) と k) の命題は「仮説」ではなく、「公理」となり得るものでもなく、市民全体(国家)の意志についての二者択一だと思います。道路などの公共事業における無駄(ただし、これはこれで雇用の維持に役立っている)を思いっきり削減することはやる気になればできることですが、市民の総意としてやる気になるかどうかです。
 諸政党の多くが党派を超えてk) の意志を持ち、市民によほど強く訴えることが必須だと思われます。医療者、患者・家族、報道機関は政治家と市民に強くうったえることも必須。医療にはあまり関心がない大多数の市民は総論賛成、各論反対となりますから、道のりは大変困難だと思います。しかし、実現できると私は信じます。
 医療にはあまり関心がない市民と言えども、新聞やテレビ等の報道により
(i)+勤務医の悲惨な状況
(ii)小児・産科医療の崩壊
(iii)日本の医療費も医師数も先進国で最低レベルであること
を知るようになってきました。(i)と(ii)は意思決定に最も関与する情念に直接響きます、(iii)は理屈ですが情念を補強します。

 (i)〜(iii)のことをまったく問題としてない方がおりますが、彼(彼女)らがそのような価値判断をしていることを批判することは原理的にできません。彼(彼女)らは医師の給料が下がらないなら医師数増加には反対しないように見てとれます。彼(彼女)らのように、本田先生ら(私も)の提唱する政策に反対する言説を半公開のブログで堂々と主張することはとてもよいことだと思います。
 (i)〜(iii)のことを知る市民は、彼(彼女)が云う『医師の給料が下がるから医師数増加に反対する』とか『医師の数が増えたら、低能な医師が増える』という主張には賛成しないと思います。